法隆寺
法隆寺は、姫路城や屋久島、白神山地とならび、日本の世界遺産第一号である。世界最古の木造建築があり、そして建物が美しく後世の建築に大きな影響を与え、日本仏教史でも重要な役割を果たしたこれが世界遺産に登録された理由だ。
貴重な建築もさることながら、ここは日本が誇る仏教美術の宝庫でもある。仏教彫刻だけで、なんと650体もあるのだ。その中でも一押しなのが観音菩薩立像、いわゆる百済観音だ。2mを超える像高で、なんともうらやましい細みの8頭身スタイル。優雅なボディラインに、しなやかな指先。それだけでも人々を魅了するには十分だが、この観音様。とてもなぞ多きお方。いつから日本の世界遺産である法隆寺にあるのか寺に記録がなく、国産か伝来物か、どこにルーツがあるのかなども、今もって不明である。法隆寺には他にも、なぞの寺宝が多い。金堂の釈迦如来が浮かべる、アルカイック・スマイルと呼ばれる謎の微笑。この仏像を作った止利仏師も、名前は広く知られていても、その招待は不明だ。さらに、玉虫厨子もどこでつくられ、何が収められていたのかもわからない。これら超有名な寺宝にまつわる、さまざまな謎。だからこそ、よりいっそうひきつけられる。
法隆寺には「世界中どこを見渡しても、これ以上古い本の建物はない」という建物が10棟ある。金堂、五重塔、中門、回廊、経蔵、東室、食堂、東大門、夢殿、伝法堂である。完成後1300年以上を経た木造建築が、朽ちかけるわけでもなく、今も造られた当時と同じ美しい姿で建つ。これをやってのけたのが、飛鳥時代の工人たち。
硬い地盤の場所を選び、耐用年数の長いヒノキを木材に選び、そのうえで匠の知恵と技術を集結させた建物。それが法隆寺だ。
江戸時代頃より法隆寺に伝わる七不思議の中には、「クモが建物に巣を張らない」、「スズメがフンをしない」というのがある。
悠久の時を超えて、どこまでもスマートにそびえる五重塔や金堂を眺めていると、クモやスズメが遠慮するのも当然だろうという気になってくる。
百済観音堂
東西に分かれた大宝蔵院の中心となる建物で、百済観音専用のお堂。左右の建物とは渡り廊下でつながっている
参上御堂
鎌倉時代に再建された建物で、平安時代の釈迦三尊像と室町時代の四天王像を安置する。毎年11月1~3日に公開
西円堂
藤原不比等の発願で建設され、鎌倉時代に再建された。日本最大級の乾漆像といわれる尊薬師如来座像を安置する
綱封蔵
奈良時代の宝物庫で、大宝蔵院完成以前に寺宝が納められていた。法隆寺にはかつてこのような建物が33棟あった
食堂
創建時の寺務所が、平安期に僧の食事の場に。南側の相殺と軒を接して建つ双堂と呼ばれる建築様式は、奈良時代のもの
大宝蔵院
1998年完成の宝物館。東西に分かれた建物で、百済観音像や玉虫厨子など、日本を代表する宝物を多数展示する
夢殿
聖徳太子を供養するために739(天平11)年に建てられたハ角円堂。中央の厨子に、聖徳太子等身と伝える飛鳥時代の秘仏救世観音像、聖観音菩薩像などを安置する
大講堂
法隆寺最大の建物。僧が仏教を学ぷ場で、法要を行う施設でもある。落雷によって焼失し、990(正暦元)年に再建された。薬師三尊像および四天王像を安置する
鐘楼
大講堂とともに落雷で焼失し、経蔵と同じ様式で平安時代に再建された。現在は年中行事のときのみ撞かれる。正岡子規の「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」の鐘である
東室
西室と対になる建物で、法隆寺に住む憎が生活していた僧房。奈良時代には大房と呼ばれ、東室の東側にある小子房と呼ばれる妻室には、従者が寝泊まりしていた
伝法堂
聖武天皇夫人の住宅を仏堂に改造したもの。通常、仏堂には床を敷かないが、この建物は床が板張りとなっている。三組の阿弥陀三尊像ほか多くの仏像を安置する
五重塔
日本最古の五重塔で、釈迦の遺骨を奉安。総高は約32.6m。初層内4面には、釈迦入寂の場面などの仏教伝説を表す塑像群が。非公開だが、扉の格子戸の隙間から垣間見える
聖霊院
聖徳太子の尊像を安置するため、鎌倉時代に束室の南端部を改造して建設。内部には三つの厨子があり、中央の厨子に秘仏である聖徳太子45歳の像を安置する
金堂
法隆寺の本尊、釈迦三尊像を安置。法隆寺最古の建築で、田崩しの高欄、屋根を支える雲形の組物などは飛鳥時代特有のもの。唐以前の中国建築の影響が見られる
中門
西院伽藍の人口。深く覆いかぶさった軒、胴の中央がわずかに膨らんだエンタシスの柱などは、飛鳥建築の粋を集めたもの。左右の金剛力士像も日本最古
回廊
金堂と五重塔の大きさが違うため、境内の広さの視覚的なバランスを保つべく、中門の西側より東側のほうが長い。緩いラインを描く梁に飛鳥の匠の美意識が見える
三経院
聖徳太子が勝鬘経一雄摩経・法華経の三つの経典を注釈したことちなんで、西室の南端部を改造して鎌倉時代に建設。現在も三経の講義が行われる
経蔵
以前は経典を納めていたが、現在は、百済の学僧で日本に天文や地理学を伝えた観勒僧正像を安置。法隆寺が再建できるほどの財宝が納められているという伝承もある
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2008年12月29日|
カテゴリー:古都奈良の文化財
平城宮跡
日本の世界遺産である平城宮跡はとにかく広い。その広さ、東京ドーム約26個分。敷地内の南北を車道が縦断し、東西を近鉄線が横切る。
敷地内はいつでも自由に散策できるが、やみくもに歩き回るのは効率が悪いので、平城宮跡資料館、遺構展示館、朱雀門などを起点・目的地にして散策するのがよい。
この場所を訪れた多くの観光客が抱くという「何にもない」という印象は、ある意味では正しい。一見、ただの広大な原っぱなのである。復元されているのは、平城宮の表玄関であった朱雀門、東院庭園、宮内省の建物といったわずかなもの。
けれども、ここは遺構。見るべきものはむしろ、いまだ地中深く埋もれているのだ。
そして何かが発見されるたびに、日本の歴史がまた一つ明らかになっていく。
見どころが多くない遺構だからこそ、ここでは散策をしながら思いを巡らせたい。1300年の昔、この場所には天皇かおり、日本の未来を担う10万もの人々が働いていたのだ。この平城京を舞台として天平文化が花開き、その粋を集めて作られたものの多くが世界的に価値を認められ、「古都奈良の文化財」として世界遺産に登録されている。平城宮跡とはいわば、奈良の世界遺産を生んだ親のようなものかもしれない。
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2008年12月29日|
カテゴリー:古都奈良の文化財
春日大社
日本の世界遺産に登録されている春日大社。その奈良公園といえば鹿。この鹿とゆかりの深いのが春日大社だ。春日大社は、奈良時代に平城京鎮護のため、常陸国から鹿島神を勧請したことに始まる、このとき鹿島神が白鹿に乗ってこられた。春日大社にとって、鹿は神の遣い。以来、一帯では鹿が大切にされるようになったのだ。
通常の神社では、社殿は更地に建てる場合が多い。ところがここでは整地をせず、山の斜面に溶け込むかのように社殿が建つ。回廊さえ斜面に建つため、「回廊をのぽりおりする」という、普通の神社ではめったにないことが起こるのだ。これは、。神住まう土地に手は加えないという、人々の心の現われ。その結果、建物に工夫が見られ、特に先生が目をこらしたのが、境内を入って右手の回廊の屋根である。
角に行くにしたがい、屋根を支える垂木が、屋根のカーーブと地面の傾斜とのバランスを取るかのように微妙にねじれ、断面も形を変えていく。なんでもこの技法、解明に半年もかかったとか。
太古の技、ぜひ自分の目で確認されたし。
春日大社の祭神、鹿島神が降臨したといわれる春日出は神聖なるものとして、千年以上もの間、手厚く保護されてきた。同時にこの山は、僧侶にとっては自然信仰に基づく山岳修行の場でもあった。森林内には、その名残である石仏や石窟仏が点在する。狩猟伐採禁止というお触れを忠実に守ってきた人々の信仰心の強さが、改めて感じられる。
近鉄奈良駅から散策をはじめ、興福寺や東大寺を見学して春日大社にたどりつけば、そこはもう春日山の麓。山中は現在も神域で立ち入り禁止だが、遊歩道が完備されている場所では、ぜひ散策したい。
春日山の花山と御蓋山の2峰からなる一帯。841年(承和8)年に狩猟や伐木が禁止された。以来、自然信仰や春日信仰と結びついて聖域となり、手付かずの自然が守られてきた。約800種の植物や60種の鳥類などが生息し、1956(昭和31)年に特別天然記念物に指定された。
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2008年12月28日|
カテゴリー:古都奈良の文化財
元興寺
日本の世界遺産に登録されている元興寺は住宅地の一角に建つ。極楽堂と禅室の、2棟の建物が建つだけの小さな寺である。「極楽坊」と呼ばれるこの小寺が世界遺産に登録された大きな理由は、奈良時代の官大寺の僧房遺構であるため。日本最古といわれる瓦を屋根に敷く建物だ。
平安期、廃れゆく元興寺で、僧房だった極楽坊が独立して寺になるほど信仰を集め、寺名を今に引き継いだ。その原因となったのが、極楽坊の本尊の「智光曼荼羅」だ。
奈良時代の僧、智光が、没した同僚の礼光と浄土世界に行く夢を見て、その光景を絵師に描かせたもの。智光、礼光の二人も登場するこの曼荼羅は、平安末期の末法思想や阿弥陀信仰の流行を背景に、庶民の絶大なる信仰を集めた。現在、智光曼荼羅は浄土三曼荼羅のIつとされ、元興寺は「智光
さんと礼光さんのお寺」である。
元興寺が庶民の信仰を集めたことは、収蔵庫をのぞけばわかる。展示されているのは、おびただしい数の庶民信仰資料。そういえばこの寺は、四方を民家に囲まれている。現在も庶民が寄り添う寺なのだ。
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2008年12月28日|
カテゴリー:古都奈良の文化財
興福寺
日本の世界遺産に登録されている奈良のお寺である興福寺の国宝館の中八部衆立像の一つ、阿修羅像。いまやすっかり、写真やポスターなどでもおなじみの仏像だ。
興福寺は、奈良時代から平安時代にかけて勢力を誇った。藤原氏の氏寺であり、一時は官寺の東大寺と肩を並べるほどの大寺院だった。けれど、時代の波には逆らえずに衰退の道を歩み、現在は五重塔や東金堂など世界遺産に登録されたわずかな建造物が、当時の輝きを今に伝えている。
そんな日本の世界遺産である興福寺にあって、輝きを放つもう一つの場所が国宝館だ。この寺は、日本有数の文化財の宝庫。所有する国宝と重要文化財は、約90点を数える。そして、館内に展示された数多くの文化財の中で、ダントツの人気を誇るのが阿修羅像である。
凛々しく、憂いを帯びたその表情は、たしかに「阿修羅」という激しい名前にはそぐわない。身長153・4cmの体も荒々しい戦闘神とは思えぬほどなよなか。
それでも、その立ち姿は、興福寺が大寺院だったころの誇りを決して忘れないかのように、気高い。
かつては、藤原一門の氏寺という格式を誇った興福寺。現在は、門もなければ塀もなく、いくつもの場所から境内に自由に入れることができ、奈良公園と一体化したような開放的な雰囲気にあふれている。境内に足を一歩踏み入れれば、あちこちで鹿がお出迎え。世界遺産に登録された国宝建造物が何棟も建ち並んでいるにもかかわらず、夜中でも境内の散策が可能で、五重塔越しに満月を眺める、なんてこともできるのだ。
現在、興福寺では境内中央に楷が設置され、中金堂の2010年再建など、境内復興整備計画が進められている。いつかきっと、かつての栄華をほうふつさせるような、極彩色に彩られた壮麗な伽藍が蘇るだろう。
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2008年12月28日|
カテゴリー:古都奈良の文化財
東大寺
日本の世界遺産である東大寺の入り口の南大門からして圧倒的な迫力。高さ25mで日本最大級の門である。その先にそびえる大仏殿が、また巨大。幅57m、奥行き50m、高さ48mで現存する木造建築では世界最大級。世界遺産として価値を認められた、大仏様という建築様式だ。創建時は幅が88mもあったというから、恐れ入る。もちろん、中に鎮座する像高約15mの仏像も、世界最大の金銅仏。この寺のご本尊である。
京都の寺院とは、まったく異なる力強さ。日本が国家としてようやく歩み始めた奈良時代の人々の、「国を造る」というパワーが、東大寺にはみなぎっている。
そんな思いで大仏を見上げていると、大仏殿の一角で笑い声が。一本の柱の根元に、大仏の鼻の穴と同じ大きさの穴が開いており、人々がくぐりぬけを楽しんでいる。くぐりぬけが成功するたび、みんなで拍手。なごやかな光景だが、よく考えればここはお寺で一番神聖な本堂。そんな場所で笑い声が許されているなんて、日本一でかいご本尊は、懐のでかさも日本一なのだ。
建物が大きいだけでなく、敷地面積も広い東大寺。愉界的な遺産として価値あり、と認められた建造物が、大仏殿を中心に境内の広範囲にわたって点在する。
その中で、山下先生が強く見学を勧めるのが、境内東にある法華堂(三月堂)と、ほぼ正反対の西にある戒壇堂だ。法華堂には天平・鎌倉時代の16体の仏像が、戒壇堂には多宝塔と四天王立像が安置されている。特に、法華堂の本尊である不空扁索観音立像と、戒壇堂の四天王立像は、どれも写真などではおなじみの天平仏で、先生いわく「天平の有名タレント」。天平文化の傑作といわれている。
「写真ではライティングなどで。化粧・をしているけど、お堂の中ではスッピンの彼らが見られるよ」
2008年12月28日|
カテゴリー:古都奈良の文化財
唐招提寺
日本の世界遺産に登録されている唐招提寺の奈良時代の金堂としては唯一この国に残る、世界遺産にふさわしい貴重な天平建築だ。2000年に始まった「平成の大修理」も、大詰め。
今まで建物を覆っていた無粋な覆い屋も取り除かれ、8年ぶりにその威容を現した。
井上靖の名作『天平の蔓』は、唐の高僧鑑真と、彼の招聘に命をかけた日本の留学僧たちを描いた大河ドラマ。失明という苦難にあいながら日本を目指し、仏牧者が守るべき戒律を初めて伝えた鑑真の功績は大きい。その鑑真が住んでいたのが唐招提寺であり、作中に「天平の蔓」として登場するのが、金堂屋根に取り付けられた鴎尾だ。
現在、その鵠尾は新宝蔵で展示されている。
金堂の完成に伴い、今まで別の場所で保管されていた本尊の盧舎那仏坐像、千手観音立像、薬師如来立像の三尊も戻ってきた。
金堂の落成を祝う落慶法要は、2009年H月。今から公開が待ち遠しい「古都奈良の文化財」に含まれるほかの寺とは異なり、境内に緑があふれる唐招提寺。ここは寺というより、昔も今も「鑑真さんのお住まい」である。
中国が誇る名僧でありながら、晩年を異国の地で送ると決めた鑑真。そんな鑑真は多くの弟子に慕われ、厳しい戒律の道場にもかかわらず、この寺には常に温かい空気が流れていた。開山堂を囲む土塀を眺めて、山ド先生が目を絹める。「きれいではないけれど、人々とお坊さんたちが一緒に作った感じがするよね」
そんな感想を抱いたのも、この寺に流れる空気を感じ取ったからにちがいない。
2008年12月22日|
カテゴリー:古都奈良の文化財
薬師寺
日本の世界遺産に登録されている薬師寺は奈良のお寺です。戦後だけみても薬師寺の変化は著しい。1966年収蔵本、72年お写経道場、76年金堂、81年西塔、84年中門、91年玄奘三蔵院伽藍、2003年夫講堂が再建され、その問に回廊も復興されている。しかも資金は、一般の人々からの写経永代供養料のみ。
台風や地震で荒れていた薬師寺を復興したのは、先々代の菅生、高田好胤。檀家をもたない薬師寺の復興に「お写経勧進」を思いつき、日本全国行脚を始めた。一文字一文字心をこめて写経することは、仏像を刻むのと同じこと。本来もつ清浄な心を写経によって取り戻す、と解き、それを求めた宗派を問わない人々の思いが集まったのだ。68年に始まった写経勧進は8年で百万巻、10億円に達し、金堂の再建に当てられた。現在も写経勧進は続いている。
今見る薬師寺は、まさに、国民が建てた伽藍なのである。建設にあたったのは、最後の宮大工といわれる西岡常一。「コンクリートは300年しかもたないが、木は千年もつ」と木材での再建にこだわった。
「修学旅行での高田好胤さんの説法はホント、面白かったよね。これぞ本来のお寺さんのあり方だ」。山下先生も大いに納得。
薬師寺を回るとき、心したいのが、由緒あるお寺だからと言って、自分勝手に敷居を上げないこと。薬師三尊を金堂の外の灯龍前からかかんでみることを教えてくれたのは、ほかならぬお寺の方。
仏像もしかり。薬師寺には、奈良白鳳時代の仏像が多く、いずれも国宝。それに加え、近年造られた仏像も多い。「その中には、直接、手で触れられる仏様もいます」。
まさにお寺の思いやりの賜物なのだ。その仏様は、人講堂にある釈迦十人弟子像。
お釈迦様のお弟子たちと握手ができる唯一の場所。お写経勧進の人々への恩返し、ありかたくちょうだいしたい。
680(白雄31)年、天武天皇が皇后(後の持続天皇)の病気平癒を薬師如来に祈願し、それを本尊として薬師寺の建立を発願。
天皇が皇后のために寺を建てたのは日本では薬師寺が初めて。
持続天皇による薬師如来開眼供養などを経て、698(朱鳥13)年、文武天皇による、講堂阿弥陀仏開眼によって完成を見る。平城京遷都を期に、718(養老2)年、現在の場所に移った。その後も地震や台風などで伽藍の消失、再建が繰り返されてきた。法相宗大本山。
2008年12月22日|
カテゴリー:古都奈良の文化財

